Nikon F用初の大口径中望遠レンズ
Nikkor-H Auto 85mm F1.8

第94夜はニコンミニというコンパクトカメラを取り上げたが、今夜はまた交換レンズに戻って中望遠レンズのお話をしよう。Nikon F発売の5年後にリリースされたNikkor-H Auto 85mm F1.8である。
大下孝一
85mmレンズは、レンジファインダーの時代からニコンにとってなじみ深いレンズである。まず1949年4月には第36夜で紹介したNikkor P・C 8.5cm F2が発売されている。ご存じの通りこのレンズは、ニッコールレンズの名を一躍世界にとどろかせるきっかけとなった伝説のレンズである。そしてその4年後、1953年2月には、第19夜で紹介されたNikkor S・C 8.5cm F1.5が発売されている。Nikon Sの発売が1950年12月ごろ、Nikon S2の発売が1954年のことだったことを考えれば、ボディに先行してレンズは大口径レンズのラインナップを拡充していたことがわかる。そしてレンジファインダーカメラの時代から、85mmレンズは明るい中望遠レンズの代名詞であったのである。
さて時代は下って1959年には一眼レフカメラNikon Fが発売となる。しかし1959年末までに発売された初期レンズラインナップをながめると、中望遠レンズとしてNikkor-P Auto 105mm F2.5、Nikkor-Q Auto 135mm F3.5の2本がラインナップされているが、なぜか85mmは発売されていない。このあたりの経緯は第5夜や第45夜で佐藤さんがお話している通り、一眼レフ用レンズとしてリニューアルする際、105mmと135mmは光学系がほぼ流用できたのに対して、85mmは焦点距離が短い分バックフォーカスが短く、新規設計が必要となったためだった。さらにNikon F開発初期には、新規設計が必須だった広角レンズと、一眼レフの魅力が生きる望遠レンズの開発に軸足を置いていたことも85mmの発売が遅くなった要因のひとつだったろう。
そしてNikon F発売から5年後の1964年8月、満を持して発売されたのがこのNikkor-H Auto 85mm F1.8なのである。Nikon F用として待望の大口径中望遠レンズの登場であった。
このレンズの設計を担当したのは、この千夜一夜物語ではたびたび登場する村上三郎(むらかみ さぶろう)さんである。村上さんは、数多くのレンジファインダー用交換レンズをはじめ、初期のNikon F用交換レンズの光学設計に携わり、初期のニコンの交換レンズを支えた大先輩である。第40夜では、Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4が村上さんの設計した最後の交換レンズだろうと書いてしまったが、実はこのNikkor-H Auto 85mm F1.8こそが、村上さんが手がけた最後の交換レンズであった。お詫びして訂正したい。
このレンズの設計着手は、恐らく1961年頃のことだと思われる。当時村上さんは設計部(のちにカメラ設計部)の副長という役職にあって、副長の職務の合間にこつこつと設計を続けられたのだろう。そして概ね設計がまとまり報告書を作成したのが1962年5月のことであった。このレンズはその年のうちに試作されたのだが、フレアっぽいとの評価結果で改善が必要であった。そこで基本設計を変えることなく、量産設計では前玉と後群の曲率半径を修正することでコマ収差を改善した。そしてようやく1964年8月に発売となったのである。
図1にNikkor-H Auto 85mm F1.8のレンズ断面図を掲げる。

このレンズは、凸の第1レンズ、凸凹の接合で全体としてメニスカス形状の第2第3レンズ、絞り、凹凸の接合で全体としてメニスカス形状の第4第5レンズ、凸の第6レンズで構成されるオーソドックスなガウスタイプのレンズである。以前のニッコール千夜一夜物語でもお話したが、ガウスタイプのレンズは、凸レンズに、ランタン系ガラスに代表される高屈折率低分散ガラスを使うことで真価を発揮する。このレンズでも第1レンズと第6レンズに当時新開発のランタン系ガラスを使うことで、球面収差やコマ収差が小さく、かつ像面の均一性に優れたレンズとなっている。ただ当時のランタン系ガラスは現在に比べて屈折率が低かったため、性能面で少し妥協せざるを得なかった面が見受けられる。その1つが残存する非点収差である。放射方向と同心方向の像面を一致させ、かつ像面を平坦にするためには、各凸レンズの屈折率が少し低すぎたのだろう。そのため、放射方向の像面をプラスに、同心方向の像面をマイナスに少しだけ残存させ、両者の平均像面を平坦にすることで画面の均一性を担保している。そしてもう1つが高次の球面収差とコマ収差の残存である。元の試作レンズでは、球面収差の曲がりが大きく過剰補正となっていた。これは絞り込んだ時に解像やコントラストが劇的に向上することを意図した収差バランスだったが、開放時にフレアが大きいという評価結果を受けて修正設計を行い、球面収差をマイナスに倒し、コマ収差もそれに倣って形を修正している。ただしフレアの根本原因である高次の収差が減じたわけではないので、開放時には若干フレアっぽさを感じるシーンがあるかもしれない。
以上つらつらとこのレンズの欠点を書き連ねてきたが、当時としては高い性能をもつレンズであったことは間違いない。明るいレンズながら周辺光量も比較的豊富で、星空の写真など均質な描写を求められる場合を除いて気になることはないだろう。また対称型のガウスタイプを採用していることで、歪曲収差や倍率色収差も極めて小さく、特に絞り込んだ時、高精細な描写が期待できる。ただ、高次の球面収差とわずかな非点収差が残存するため、絞り開放のボケに乱れや硬さがあらわれることが示唆される。
それではいつものように実写でレンズの描写をみていこう。実写はフルサイズミラーレスカメラZ6にFTZを装着して撮影を行った。今回使ったレンズは、Ai改造されたマルチコートタイプのNikkor-H Auto 85mm F1.8である。マニュアルフォーカスレンズをFTZに装着時は実絞り測光での撮影となり、またボディ側で焦点距離や開放F値の情報を登録する必要がある。ボディ内手振れ補正を有効に働かせるため、焦点距離登録を必ず行うようにしたい。
焦点距離85mmで F1.8というスペックは、アタッチメントサイズ52mmに収まる一番明るいレンズである。しかしアタッチメントサイズ52mmではあるものの、レンズエレメントがぎっしりつまっているため、420gと見た目よりずっしり重い。さらにフォーカスリングあたりのふくらみは72mmに達しており、同じ小型の中望遠レンズでも第80夜で紹介した軽量のNikon Lens Series E 100mm F2.8とは好対照な印象のレンズである。
なお作例はRAWで撮影し、倍率色補正やビネッティング補正をOFFで現像している。ただ作例3だけは現像後、複数枚の画像合成やフラット補正処理を行っているため、周辺光量の評価はできないことにご留意いただきたい。
作例1と作例2は、都会のビル群を写した遠景写真である。作例1は絞り開放で、作例2は絞りF4に絞って撮影した。絞り開放で撮影した作例1でも画面中央部から5割くらいまではシャープでコントラストの比較的高い描写となっているが、作例2と比較してみると若干フレアがかっていて、さらに赤~紫の淡い色にじみが出ていることがわるだろう。さらに周辺部に着目すると作例1ではフレアが増し、解像度が周辺にゆくにしたがって低下し甘くなっていることがわかる。特に画面右上あたりのTVアンテナがわかりやすいだろう。一方絞りをF4に絞り込んだ作例2では、そうした周辺のフレア増加や解像低下は感じられず、画面全体でほぼ均質な描写となっており、また周辺の色にじみも認められない。これは倍率色収差が非常に小さいことをあらわしている。
また、すべて直線物で構成されているビルの画像だが、上記作例では歪曲収差は認められない。歪曲収差は、無限遠で約+0.5%、至近距離1mでは0.1%以下に収まっているため、こうした直線物の撮影にはうってつけのレンズである。
作例3は、絞り開放で撮影したオリオン座中心部の写真である。画面中央部に2等星の三ツ星、左上と右下にペテルギウスとリゲルの1等星、右上にベラトリクス、左下にサイフの2等星が配された姿は均整がとれて美しい。また、三ツ星の下にはオリオン大星雲のM42とM43、三ツ星の左の星アルニタクのすぐ上には「燃える木」の愛称のあるNGC2024、すぐ下には馬頭星雲の愛称で知られるIC434、さらにアルニタクとペテルギウスの間にはM78星雲と多彩な星雲が彩を添えている。この写真は、6秒露出の写真を16コマ合成し高感度ノイズを低減した後、フラット補正を行い背景の濃度を均一にし、星の写真特有の高コントラスト処理を行っている。そのため淡いフレアや色収差が増強されて目立つ画像となっている。
まず、画面中央の三ツ星付近に着目すると、明るい星のまわりには青から赤紫の色のにじみがあり、明るい星ほど星像が大きくなっていることがわかる。これは高次の球面収差と軸上色収差が残存している影響で、これが作例1で感じられた画面中央部のフレアの正体である。さらに、画面周辺にある4つの1~2等星に着目すると、赤紫のフレア成分が画面中央に向かって扇形に広がるように変形していることがわかる。これは残存するコマ収差による影響で、この作例のように画面中央に向かってコマが伸びている場合を内コマ収差という。このコマ収差の状況は撮影距離によって変化し、無限遠では若干の内コマ収差、近距離では外コマ収差になるようバランスされている。また、画面周辺の少し暗い星の像に着目すると、星の形が点や丸でなく菱形状に変形していることがわかるだろうか。これは画面周辺の非点収差によるもので、放射方向と同心方向で同時にピントが合わないために星の像が変形しているのである。作例1で感じられた周辺像のフレア感と解像低下も、このコマ収差と非点収差によるものである。この非点収差は、絞り込むことによって目立たなくなり、絞りをF4からF5.6とすることでほぼ解消される。
作例4は、絞りF8に絞り込んで撮影したプラタナスの幹である。上記の通り、F5.6まで絞れば全画面で均質な像となるが、幹の根元から先までを深度にいれるため、F8まで絞り込んでいる。このため非常にシャープで硬質な像が得られている。
作例5は、クロガネモチという樹木の実を少し離れた位置から絞り開放で撮影している。絞り開放からコントラストの高い描写だ。ただ画面の周辺部の葉や赤い実を子細にみると少し同心円状に流れたように見えることに気づくだろう。これは作例3で指摘した非点収差によるもので、数少ないこのレンズの欠点である。
また背景のボケに着目すると、画面周辺でラグビーボール状に変形しており、またボケのエッジが立っており、この作例のように背景にコントラストの高い被写体がある場合、うるさく感じられることがあるかもしれない。
作例6は、同じ被写体を絞りF2.8に絞り込んで撮影したものだ。このように背景ボケの硬さは少し絞り込むことで解消されるが、このレンズの絞り形状が角張った六角形であるため、角ばったボケ形状がかえってうるさく感じられる場合もあるだろう。
作例7は、絞り開放で撮影した寒緋桜である。なるべく背景を省略したかったので開放で撮影したが、F1.8の開放ではピントの合う範囲が狭く、ほとんどの花がアウトフォーカスになっている。また画面周辺の花に着目すると、作例5と同様に非点収差によるボケ像の乱れが感じられるだろう。
ところで以前第30夜で、背景ボケの大きさはレンズの有効径に依存することを紹介したが、この背景ボケの大きさとは、被写体から十分離れた無限遠背景に対するものである。一方レンズの明るさを表すF値は、被写体の前後どれくらいの範囲ピントが合って見えるか(=被写界深度)をあらわす指標といえる。つまり、ほぼ同じ有効径をもつ85mm F1.8と135mm F2.8では、画面に対する被写体のサイズが同じなら、背景のボケはだいたい同じになるが、被写界深度は135mmの方が大きいのである。この被写界深度の浅さが大口径85mmレンズの魅力であり、また使いこなしの難しいところである。
作例8は、最短撮影距離、絞り開放で撮影したウメの花である。作例7よりさらに被写界深度が狭くなっており、画面やや下の枝先の花と画面中央の花がぎりぎりピント範囲といえるところだろう。そして、ピントの合っている花でも描写はどことなく甘くフレアがかっている。これは、撮影距離により変動する球面収差によるもので、最短撮影距離ではかなり大きな負の球面収差が発生しており、このため全体にベールのかかったようなソフトな描写となっている。この解消にはF2.8からF4に絞り込む必要がある。この近距離での球面収差変動は全体繰り出しフォーカスにおいて原理的なもので、さらにF1.4に大口径化したAi Nikkor 85mm F1.4S(第89夜で紹介)では、近距離補正方式を搭載してこの球面収差変動を補正している。そんなわけでこのレンズの最短撮影距離は1mとなっているのだろう。
このレンズは、上記の通り1964年8月に発売されているが、その前の年に、レンズの量産立ち上げを後輩に託し村上さんは退職されている。まさに村上さんが手がけた最後のレンズで、その発売を大変喜ばれたに違いない。そしてこのレンズは10年後の1974年6月にはNikkor-HC Auto 85mm F1.8でマルチコート化され、さらに1975年6月には外観変更され、New Nikkor 85mm F1.8に生まれ変わり十数年の長きにわたり愛用されている。
ところが、1977年にAi対応のボディ発売とともに、85mmレンズは光学系を一新したAi Nikkor 85mm F2が発売となり、この85mm F1.8レンズは静かに役割を終えている。この背景には、85mmレンズを、安価で小型軽量の85mmラインと、より明るく高性能のAi Nikkor 85mm F1.4S(第89夜で佐藤さんが紹介)の2系列にするにあたって、より軽量小型の個性を際立たせる狙いがあったようだ。村上さんの直接の後輩である脇本さんは、後継機をF2に暗くするとは何事だ!とこの85mm F1.8レンズの発売中止を非常に残念がったといわれる。
いつの時代も明るい中望遠レンズの代名詞だった85mm。そう考えると、長らく最も明るい中望遠レンズの座に君臨してきたこのレンズの後継機は、Ai Nikkor 85mm F1.4Sなのかもしれない。
フィルムカメラを前提としたオールドレンズを、最新のデジタルカメラに装着し撮影する場合に留意してほしい事項がある。それは撮像センサーの前に装着されている光学ローパスフィルターやカラーフィルターの影響についてである。図2をご覧いただきたい。

これは結像位置直前にフィルターを配置した時の結像状態をあらわした図である。フィルターがない状態でAに無収差で結像していた光線は、フィルターが挿入されることで結像点がBにずれる。と同時にその結像状態に着目すると、光線はBに結像しておらず、傾きをもった光線ほどBよりも右側にピントを結んでいることがわかる。これは球面収差がプラスに発生している状態である。これがセンサー前フィルターの影響の1つで、球面収差がプラスに(=過剰補正に)変化する、また図からもわかるとおり、光線の傾角が大きいほど、つまりレンズのF値が小さいほど球面収差の発生量は大きくなるのである。
では画面周辺の光線はどうだろうか?画面周辺では光線が傾斜をもっているため、図2の光線のうち片側がなくなってしまったものを想像するとよい。わかりやすくするために図3に図示してみよう。

図3で、画面中心の結像状態をあらわしたのが下の光路で、画面周辺の結像状態をあらわしたのが上の光線経路である。下の画面中心の結像では、図2と同様にプラスの球面収差が発生しているが、レンズのF値を大きく(=暗く)図示したため、その発生量は減少している。一方上の画面周辺の結像をみると、画面中心より多くの収差が発生し、本来の結像点Bより右側にピント位置がずれていることがわかる。ここでは主に2つの収差が発生している。1つはプラスの像面湾曲、そしてもう1つは内コマ収差である。このようにセンサー前のフィルターの影響で、プラスの球面収差、そして画面周辺ではプラスの像面湾曲と内コマ収差が原理的に発生してしまうのである。そして画面周辺の像面湾曲や内コマ収差は、レンジファインダー用広角レンズのような射出瞳の短いレンズでより強く発生する。デジタルカメラでオールドレンズを実写する時は、こうしたセンサー前フィルターの影響を頭の片隅に入れておいていただけるとさいわいである。本稿の実写結果でも、作例3で画面周辺の内コマ収差と画面四隅の非点収差の影響を、作例5や7では球面収差による後ボケの硬さと非点収差によるボケの乱れを指摘したが、これらの欠点は、センサー前フィルターの影響で少しだけ増強されているように感じる。なお、ニコンZシリーズのボディは、オールドレンズをつけた時も出来るだけ本来の性能を発揮できるよう、センサー前フィルターを極力薄く設計している。それでも影響をゼロにすることはできないことを、心の片隅に留めておいてほしい。