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vol.11 写真には、社会を変える力がある。

人々の生きる権利を守る、フォトジャーナリズム。

パレスチナ紛争やチェルノブイリ事故の取材により「土門拳賞」など数々の賞を受賞し、今なお活躍を続けているフォトジャーナリスト・広河隆一氏。このたびの東日本大震災においても、直後に現地に入り、写真とレポートで津波被害や原発周辺の様子を我々に伝えてくれました。また、世界からも注目の高い月刊誌『DAYS JAPAN』の発行・編集、取材現場の被災者への様々な支援活動など、単なる報道の枠を超え、人に社会に影響を与えています。
氏の考えるフォトジャーナリズムとその現状、報道における写真の力とは。
さらに戦地でもタフに使用できたというNIKONのカメラと、プロユーザーに対するサポート体制についてもお話をうかがいました。

1. 最前線で学んだジャーナリズム。

紆余曲折があり、フォトジャーナリストの道へ。

リフター(エルサレム地区)。イスラム教徒2530人。キリスト教徒20人が住んでいた。村はサルマン川を見降ろす険しい丘の斜面にあった。村は旧約聖書時代、ビザンチン時代、十字軍時代などに記録のある地であるとされている。
1947年12月にイスラエル軍の攻撃が始まり、1948年2月までにはほとんどの住民は村を捨てて逃げた。エルサレム入口にある。2002年。

写真を始めたのはいつ頃ですか?

大学2年の時に、友人と一緒にドキュメンタリーの写真サークルを作りました。1960年代、学生運動などが盛んだった頃、私も社会問題に取り組みたいと思い、アプローチの方法として写真を選んだのです。
ところが、学生運動はあっけなく終息。普通に就職していく学生達の姿に疑問を感じて、当時理想的な共同体があると言われていたイスラエルへ渡りました。そこで私の人生を変えた、第3次中東戦争に巻き込まれることになります。
結果はイスラエルの圧倒的勝利。でもその時の、傍若無人なイスラエル軍の姿は、「理想的」と言われたイスラエルのイメージと全く異なっていました。
また同時期、あるユダヤ人のグループと出会います。彼らから私が滞在している地域は、イスラエルではなくパレスチナ人の村があったことを聞かされ、その村の隠された歴史と痕跡を記録に残したいと思い、撮影を始めました。これが私の活動の原点となりました。

どのような経緯で、日本での活動を始めたのですか?

現地の通信社で少し仕事をした後、日本へ戻ってきました。仕事を探していたところ、旧友の紹介で、講談社の『少年マガジン』でスポーツ写真を撮らせてもらうことになります。でも本当は、スポーツ写真を撮った経験などほとんどなく(笑)。それでも、生で見るのも初めてというボクシングの試合で、なんとか1枚だけ良いカットを撮ることができたんです。あの写真がなかったら、今の私はないでしょう(笑)。
その後も講談社で写真の仕事を続けていたのですが、次第にフォトジャーナリズムの世界に戻ってみたいという気持ちが湧き上がってきます。
そこで雑誌の仕事に区切りをつけ、7年程ぶりにイスラエルへ戻り、あらためてフォトジャーナリストとして活動を始めたのです。

一直線にフォトジャーナリストを目指されたわけではないのですね。

そうですね。フォトジャーナリストの仕事も日本で誰かに教わってではなく、現場で経験と知識を積み上げていきました。
現地に入って、パレスチナの人々が住む村に行った時、ある老人に「何で今頃来たんだ」と叱責されたことがありました。なぜ怒るのかと聞いたところ、ひと月ほど前にイスラエル軍がこの村を襲撃して、彼の息子を含む6名を射殺したとのこと。「もし外国人のジャーナリストがいれば、彼らはそこまでひどい行動には出なかっただろう」というのです。
それまで私は、フォトジャーナリストというものは起こっている事象に対しシャッターをきり、それを伝えるのが仕事であり存在意義だと考えていました。でもこのことで、フォトジャーナリスト自身が事件の抑止力にもなるのだということを知りました。ジャーナリズムの役割を意識的に考えるようになったきっかけですね。

リフター(エルサレム地区)。イスラム教徒2530人。キリスト教徒20人が住んでいた。村はサルマン川を見降ろす険しい丘の斜面にあった。村は旧約聖書時代、ビザンチン時代、十字軍時代などに記録のある地であるとされている。
1947年12月にイスラエル軍の攻撃が始まり、1948年2月までにはほとんどの住民は村を捨てて逃げた。エルサレム入口にある。2002年。

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死と隣り合わせの取材活動。

その後パレスチナと日本を行き来するようになるのですね。

1982年、イスラエル軍がレバノンへ侵攻を始めた時も、現地へ駆けつけました。
結局イスラエル軍の圧倒的な戦力の前に、PLO(パレスチナ解放機構)は撤退。これでこの争いは終結したかに思えました。しかし私はかつて老人から言われたことが脳裏をかすめ、他の海外メディアが現地から離れる中、その場に留まることにします。
すると悪い予感は当たり、次にイスラエル軍はパレスチナ難民キャンプを完全に封鎖。ジャーナリストはおろか、赤十字さえ入れない状態です。
私はこの状況を報道するため、殺されるかもしれないという恐怖と戦いながら封鎖された地区へ。周囲をうろつきながらなんとか入れそうな場所を探しあて、予想通り中で行われていた虐殺の様子を記録していきました。虐殺はイスラエル軍の包囲下に、レバノン右派勢力の手で起こされました。
数時間後、ようやく国際赤十字や他のジャーナリストが中へ入ってきます。これで私の役割は終わったと出口に向かったのですが、出口前を封鎖していた戦車の上で、ビーチパラソルを開き上半身裸で読書している兵士の姿を目にしたのです。

それもまたショッキングな光景ですね。

それを見て非常に悔しい思いがこみ上げてきて、とにかく早くこの事態をどこかに知らせなければまた次の虐殺が起こるかもしれないと、ロイターに飛び込みました。しかし回線は全て切断されており、国外に連絡が取れません。共同通信にも行きましたが、同じ状況です。
ところがしばらくすると、突然BBCが難民キャンプの中で虐殺が起こっていることを報じ始めたのです。
ロイターも共同通信も連絡が取れなかったのに、なぜBBCは報道が可能だったのか。不思議に思い翌日彼らに聞くと、なんと彼らは唯一外部との連絡網を持っているところ、つまりイスラエル軍の司令部に飛び込み、彼らの通信網を使って中の状況を伝えたというのです!報道とはこういうことかと、私も随分驚きました。

ベイルートのアラブ大学を砲撃するイスラエル軍戦車。1982年。
虐殺事件が起こった、ベイルートのパレスチナ難民キャンプの様子。1982年9月。
イスラエル兵の捜索を遠くから見る難民の家族。家の中に閉じ込められて、キャンプから逃れるのは不可能だった。占領下のバラータ難民キャンプで。2002年3月。
イスラエルによる占領に反対するパレスチナ人の闘いは石から銃へとエスカレートしていた。イスラエル戦車を狙う武装パレスチナ人を撮影しようとシャッターを1回切った次の瞬間、彼の体が沈んだ。銃声も聞こえなかったし、何が起こったのか私にはすぐには分からなかったが、彼は、イスラエルの狙撃兵にたった1発の銃弾で撃ち抜かれた。ラーマッラー。2002年1月。

広河さんも含め、ジャーナリスト達もまさに戦っていたわけですね。

こんなこともありました。
しばらくして、シリアの病院に行った時のこと。見知らぬ人が「あなたは広河だろう」と声をかけてきました。どなたですかと尋ねると、「イスラエル軍がパレスチナ難民キャンプを封鎖した時、その地区の住民だった私たちは、1人でその中へ入ろうとしていたあなたの姿を周囲から見ていたのだ」というのです。「私たちにはあの難民キャンプの中で虐殺が行われていることが分かっていた。でも、私たちには止める術はない。唯一できることといえば、外国人ジャーナリストをあの中に無事に入れ、中で起こっていることを海外で伝えてもらうということだけだった。だからもしあなたの身に何かが起こりそうになったら、銃で援護しようと思っていた」と。
あの時、私はたった1人であそこにいたと思っていましたが、実は住民たちが私を見守ってくれていたんですね。
このケースに限らず、このような事件の現場では「ジャーナリストを助けることで、自分たちも助かる」という関係性が築かれることは、少なくないのです。

ベイルートのアラブ大学を砲撃するイスラエル軍戦車。1982年。

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1982年9月16日から18日にかけて、ベイルートのサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプで虐殺事件が起こった。イスラエル包囲下のキャンプにレバノン右派民兵が入って引き起こされた。1982年9月。

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イスラエル兵の捜索を遠くから見る難民の家族。家の中に閉じ込められて、キャンプから逃れるのは不可能だった。占領下のバラータ難民キャンプで。2002年3月。

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イスラエルによる占領に反対するパレスチナ人の闘いは石から銃へとエスカレートしていた。イスラエル戦車を狙う武装パレスチナ人を撮影しようとシャッターを1回切った次の瞬間、彼の体が沈んだ。銃声も聞こえなかったし、何が起こったのか私にはすぐには分からなかったが、彼は、イスラエルの狙撃兵にたった1発の銃弾で撃ち抜かれた。ラーマッラー。2002年1月。

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写真家ではなく、フォトジャーナリスト。

ところで様々な活動をされている広河さんですが、肩書きは写真家になるのでしょうか?

私はフォトジャーナリストを名乗っていますが、写真家と名乗ったことはありません。だから日本の写真家辞典の中にも私の名前はあまりありませんし、逆にジャーナリストの人名簿には載っていたりします。
「広河は写真も仕事にしているんだ」と世間的に認知されたのは、しばらく後になってからではないですか。(笑)

でも、1983年にはIOJ世界報道写真コンテストの大賞などもとっていらっしゃいますよね。

この賞も、写真そのものというより、ジャーナリスト的な側面からの評価だったと思います。講談社出版文化大賞をはじめ、いくつかの賞をとっていくうちに、徐々に写真の分野でも認められてきたといった感じでしょうか。それでも自分の基本は、あくまでジャーナリストです。
一口に写真といっても、そのジャンルによって、専門性や目的は異なります。私の場合はいかにきれいな写真を撮るかではなく、重大な問題が発生している現場に直接出向いてシャッターを押し、それを人々に伝えるのが仕事だと思っています。

占領下パレスチナのナブルスのバラータ難民キャンプを捜索するイスラエル兵。彼らは動くものがあると、反射的に照準を合わせる。2002年3月。

しかし仕事とはいえ、最前線でシャッターを押すのは、勇気がいりますね。

私は怖がりですよ。だからこそ、カメラを持っていてよかったと思います。
文章を書く人たちであれば、他のメディアやスタッフからの情報を元に記事を書くこともできるでしょう。でも写真はそうはいきません。写真という手段を選んでしまったばかりに、直接現場に立たねばならなくなってしまいました。(笑)
弾が飛び交い、自分の横で戦車が発砲しているような状況で、写真を撮ることもあります。そんな時でも、カメラを覗いている間だけは大丈夫なんですよ。
フィルムを交換するためにファインダーから目を離すと、もうだめです。震えが止まらなくなって…。その震える手で何とかフィルムを詰め終わり、ファインダーを目に当てると、不思議と震えが止まる。
カメラを持たずにそこへいるだけだと単なる見物人ですが、ファインダーを覗くと、今自分がなぜここにいるのかがわかるからでしょうね。

占領下パレスチナのナブルスのバラータ難民キャンプを捜索するイスラエル兵。彼らは動くものがあると、反射的に照準を合わせる。2002年3月。

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