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vol.11 写真には、社会を変える力がある。

3. カメラへのこだわり。表現へのこだわり。

「軽量かつ高性能」がカメラの選択基準。

以前から、ニコンのカメラをお使いですか?

日本で本格的にプロとして活動する前は、他社のカメラを使っていました。ところが日本でスポーツ撮影の現場に入ると、周りの人達が皆ニコンやキヤノンを使っていてビックリ。そのようなことをきっかけにニコンに変えました。実はその後も、その時々の事情で他社のカメラも使いつつ、9.11のテロが起こった頃から、またニコンに戻っています。

主にお使いのカメラとレンズはなんでしょう?

よく使っているのはD700です。コンパクトで軽い上に性能が高く、助かっています。 以前は重いカメラとレンズを何台もぶら下げ、パレスチナやイラクなどに出かけていました。しかしチェルノブイリから帰国後に倒れたことなどもあり、重いセットを持ち歩くのは徐々にきつくなってきたんですね。そこで仕方なく軽いカメラとレンズを使ってみたのですが、これが思った以上に良く撮れて。それ以降は、できるだけ軽装で出かけるようになりました

でも、D700も発売から3年ほど経ちますよね。そろそろ後続機を期待したいですね(笑)。
レンズはこちらの70-300mm。それからこの18-35mmなどを使っています。気になっているのは、最近出た16-35mmですね。普段は広角で撮ることが多いので、あれは使ってみたいですね。

D700よりハイエンドのカメラもありますが…。

繊細な描写を必要とする写真はまた別かもしれませんが、私はD700で全く問題がありません。最近行ったチェルノブイリも福島も、これらのセットで出かけました。
D3などはカメラとしては良いのでしょうが、荒れ地なども歩き回る私には、重くて向かないですね。そもそも戦地に足を踏み入れる時でも、防弾チョッキが重いので、必要な時以外はヘルメットもなしで行動するほどですから。それよりできるだけ身を軽くして、危険な時はとにかく早く逃げたほうがいいんですよ。軽量の防弾チョッキでは、小口径のピストルの弾も通してしまうことがあるくらいですから役には立ちません。(笑)

現場で使っていていかがでしょうか?

中東の灼熱の地や、戦場の砂埃舞う中で撮影をしたりしていても、私のカメラは特に問題はなかったですね。中には熱でカメラやレンズの外部が溶けてしまっているカメラマンもいましたが…。そういう意味で、とても信頼していますよ。
もちろん過酷な状況で撮影をしているわけですから、その都度ニコンさんにはメンテナンスでお世話になっていますけれども。

紛争地域を撮影する時のセット。D700、ヘルメット、プレスパス。
チェルノブイリ取材現場にて。2011年2月。

プロとしてありがたい、親身のサポート。

デジタルカメラを使い始めたのはいつ頃ですか?

5〜6年前でしょうか。フィルムからデジタルに変える時は、とても抵抗があったのですよ。「表現」を行うためには頭と心を通す時間が必要。デジタルではそれがないがしろにされてしまうのではないかという思いがありました。かつては「デジタル写真は悪魔の誘惑」などという記事も書いたことがあるくらいで(笑)。
しかし、使用当初は「まだまだ」と思っていたクオリティも、このところ急激に上がってきました。最近は特に高感度性能が良いおかげで、暗い場所でもシャッタースピードを落とさずに撮影できますしね。今ではフィルムに戻りにくくなってしまいました。

ストックしているポジなどはどうしていらっしゃいますか?

基本的にポジスキャナでスキャン。データは簡単な名前と通しナンバーをつけ、データベース化しています。これ自体は軽いデータなので、印刷に使う写真を探す際は、まずパソコンで検索をし、該当するポジを渡すようにしています。最初は大きなサイズでスキャンしていたのですが、データ量が膨大になったため、今のようなスタイルにしました。
たとえば新聞など高解像度を必要としない印刷物や、サイズが小さな印刷物は、このままのデータで渡すこともあります。

ニコンへの要望はありますか?

カメラにおいて、今のところ何か大きく改善して欲しいという具体的な点はないですね。
私にとって一番ありがたいのは、実はカメラの性能の向上以上に、親身のサポート体制なんです。海外から帰ってきて、NPSに傷んだカメラを恐る恐るもっていくんですよ。「これは治りません。」と突き返されたらどうしようと…(笑)。そんな時、丁寧かつにこやかに対応してもらえると、ほっとします。
以前、他のメーカーでメンテナンスに持っていった時、代替機として初心者の方が使うようなカメラを与えられたことがありました。プロなのですから、カメラなら何でも良いというわけにはいかないのです。これで仕事しろということなのかと、その時は大変ショックを受けました。
それに対して、NPSはプロの仕事をきちんと理解して、細やかな配慮をしてくれる。やはり全ての基本は人間関係ですね。

真っ先に駆けつけた福島で。

今回の東日本大震災。すぐ福島に入られたとのことでしたが、その時何を一番懸念されていらっしゃいましたか?

震災直後、津波に関しては頻繁に報道されていましたが、原発の情報が少ないことが気がかりでした。放出された放射能について具体的な報道はありませんでしたし、それでいて安全という言葉ばかりが繰り返されていました。長年チェルノブイリや国内の原発問題を追いかけてきた私は、「そのようなわけはない」と。やはり福島に行かねばと思ったのです。
しかし現地(双葉町)では、写真はあまり撮れませんでした。私たちが独自に測ったところ、放射能汚染があまりにひどく、まだ町中を行き来する人々に避難の呼びかけをするので精一杯だったからです。
郡山に着いた12日の夜、宿に入らずすぐに原発周辺の町へ行って放射能値を計りながら撮影すべきだったのではないかと、その点は後悔しています。

実際に現地に入られた時には、かなり危険な状態だったわけですね。

このガイガーカウンターの針が振り切れてしまいましたからね。私はチェルノブイリに50回ほど行っているのですが、針が振り切れることなどなかったのです。
わが目を疑い、もしかしたらこのガイガーカウンターが壊れているのかと一緒に行ったメンバーの機器も見たのですが、同様に振り切れていました。

崩れ落ちた常磐線の線路。双葉町・福島県。2011年3月。
取り残された20キロ圏内の飼い犬たち。福島県。2011年4月。
福島第一原発から北に30キロほど離れた場所の看板。「原発爆発この先立ち入り禁止」と書かれている。南相馬市・福島県。2011年3月。
チェルノブイリや福島で使用したガイガーカウンター。

崩れ落ちた常磐線の線路。双葉町・福島県。2011年3月。

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取り残された20キロ圏内の飼い犬たち。福島県。2011年4月。

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福島第一原発から北に30キロほど離れた場所の看板。「原発爆発この先立ち入り禁止」と書かれている。南相馬市・福島県。2011年3月。

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危険を顧みず、取材を続ける理由。

今回の福島もそうですが、広河さん自身も危険な状況にあいながら、それでも取材を続けられている理由はなんでしょう。

たとえば「戦争」。近年世界で行われている戦争と言われているもの、あれは戦争ではないと思っています。圧倒的な武力を持つ国が、一方的に攻撃しているようなケースが多い。そして、その犠牲になっている一般市民たちがいる。そのような人たちがいる限り、私は彼らのもとへ行き、彼らの立場から写真を撮り続けたいと思っています。それがその人たちを守ることになるし、フォトジャーナリストとしてのあるべきスタンスだと思っています。

イスラエル軍によって封鎖されたアラム検問所で、Vサインを掲げるパレスチナ人女性。2002年4月。

広河さん自身が取材をする上で心がけていることを教えていただけますか?

加害者は必ず被害を隠す、と自分に言い聞かせています。
例えばどこかで軍が立ち入り禁止区域を設けたとしたら、それはその中でジャーナリストに見られてはまずいことが起こっている可能性が高い。爆弾を落とす側がその被害者を隠すわけです。これはあらゆる現場で起きていることです。だから、立ち入り禁止区域へは、あえて出向くようにしています。

このようなきりのない過酷な現実に、打ちのめされてしまうことはありませんか?

やはりありますよ。シャッターを切れない時もあります。自分の無力さを痛感するというか、脱力感みたいなものはしょっちゅうあります。
でもその悔しさが、また取材を続ける動機になっています。
決して「良い写真を撮りたいから、また戻りたい」などと思ったことはありません。

イスラエル軍によって封鎖されたアラム検問所で、Vサインを掲げるパレスチナ人女性。2002年4月。

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知る権利を守ることは、生きる権利を守ること。

ターニャは4歳で被曝し、14歳で発病した。がんは全身に転移し、痛みとたたかう毎日だった。ウクライナ。1996年11月。
のどにある甲状腺の手術を待つ子ども。チェルノブイリ事故から10年目。小児甲状腺がんは事故後多発した。ベラルーシ。1996年。
チェルノブイリ原発から北に60キロのホイニキ市で乳児を抱く若い母親。ベラルーシでは検査した母乳のすべてから放射性物質が検出された。ベラルーシ。1993年。

若いフォトジャーナリストや、フォトジャーナリストを目指す人たちにアドバイスをお願いできますか。

技術は後でもいい。磨けば、ある程度は誰でもできるようになります。
それよりもやはり、人間や自然の生命へ敬意を持つこと。そしてその尊厳を守ることが最も大切なことではないでしょうか。
被写体となる人達に対し敬意を持ってシャッターを押せば、見る人にたとえば「私たちにもこの責任はあるはずです」といったメッセージを投げかけることもできるはず。もちろん上から目線でシャッターを押すなどということはできなくなるでしょう。
撮った後に作品を見直す時も、その尺度に照らし合わせると、使える写真かどうかが見えてきます。

「想い」で写真は変わるのですね。

こんなことがありました。
私はチェルノブイリの人々の救援活動を行っていて、その一環としてガンになった子供たちを収容するサナトリウムにも携わっています。
私は以前そこで、写真に関するワークショップをしたんです。二人に一つのカメラを与え、3日間で写真を撮ってもらい、展覧会を開くというものです。講義で私は基本的なことを少ししか教えなかったのですが、子供たちはすごい写真を撮っていました。中には手術をしたものの、もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれないと思われていた子もいたのですが、生きているということ認識した時の友達や光に対する感じ方が素晴らしかったのです。

「報道」の重要性については、どのようにお考えですか。

世界中の人は、誰もが「生きる権利」を持っています。「生きる権利」には「健康に生きる権利」とか「幸せに生きる権利」などいろいろとありますが、それを全うするのは大変なことです。
そのためにもう一つ大切なことがあります。それは「知る権利」。そしてそれを提供するのがジャーナリストです。だからジャーナリストは、相手が大統領だろうが軍隊のトップだろうが、積極的に出向いて対等の立場で取材することができるのです。

情報を受ける一般の人たちにもなにかメッセージを。

『DAYS JAPAN』には、たしかにきつい写真も掲載されています。しかし現実の世界には、表と裏がある。一般の書店には表の本ばかりが並んでいるわけですが、対して主に裏、というよりも世界の本当の姿を扱っているのが『DAYS JAPAN』だと思っています。
我々はやはり、そこに目を向けなければいけない。見たくないから見ないことにする、というわけにはいかないでしょう。
世界は皆、さまざまな形でつながっています。ここに写っている世界にも、我々の日常が多大な影響を与えているかもしれないのですから。

ターニャは4歳で被曝し、14歳で発病した。がんは全身に転移し、痛みとたたかう毎日だった。ウクライナ。1996年11月。

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のどにある甲状腺の手術を待つ子ども。チェルノブイリ事故から10年目。小児甲状腺がんは事故後多発した。ベラルーシ。1996年。

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チェルノブイリ原発から北に60キロのホイニキ市で乳児を抱く若い母親。ベラルーシでは検査した母乳のすべてから放射性物質が検出された。ベラルーシ。1993年。

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インタビューを終えて・・・

話をうかがっている途中、広河さんに電話が入ります。それはチェルノブイリにおける20年以上もの救援活動をたたえ、ウクライナ大使館が広河さんへ贈る国家名誉勲章に関する連絡でした。
過酷な状況を記録するだけでなく、目にしたものに何かを感じて積極的にアクションを起こし、さらに何年も継続する。通り過ぎてしまいがちな取材対象への、この真摯な想いと哲学。それが作品にもあらわれ、多くの人の心をとらえるのでしょう。
「フォトジャーナリストには、生命に対する敬意こそ大切」という言葉に、強い説得力を感じたインタビューでした。

プロフィール

広河 隆一氏

広河 隆一 ひろかわ りゅういち

フォトジャーナリスト
ビデオジャーナリスト
DAYS JAPAN 編集長

略歴

1943年 中国天津市に生まれる 2歳のときに日本に引き揚げる
1967年 早稲田大学卒業後、イスラエルに渡る
1970年 帰国。以後、中東問題と核問題を中心に取材を重ねる
1982年 レバノン戦争とパレスチナ人キャンプの虐殺事件の記録で、よみうり写真大賞受賞
1983年 同記録で、IOJ世界報道写真コンテスト 大賞・金賞受賞
1989年 チェルノブイリとスリーマイル島原発事故の報告で、講談社出版文化大賞受賞
1993年 写真集「チェルノブイリから〜ニーナ先生と子どもたち」で産経児童出版文化賞受賞
1998年 「人間の戦場」(新潮社)で日本ジャーナリスト会議特別賞受賞
1999年 「チェルノブイリ消えた458の村」(日本図書センター)で平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞
2001年 「チェルノブイリ消えた458の村」でさがみはら写真賞ノスタルギア賞受賞
2002年 「パレスチナ 新版」(岩波新書)で早稲田ジャーナリズム大賞受賞
2003年 「写真記録パレスチナ」(日本図書センタ―)で日本写真家協会賞年度賞受賞
「写真記録パレスチナ」(日本図書センター)で土門拳賞受賞

主な写真展

1994年 コニカプラザにて「地球の現場を行く」写真展を開催
1996年 コニカプラザにて「チェルノブイリと地球」写真展を開催
1998年 銀座ニコンサロンにて「アウシュビッツとチェルノブイリ」写真展を開催
2001年 新宿ニコンサロンにて「激動の中東35年」写真展を開催
2002年 コニカプラザにて「激動のパレスチナ」写真展を開催
2003年 新宿ニコンサロンにて第22回土門拳賞受賞作品展「広河隆一写真展」を開催
 
  広河隆一 非核・平和写真展開催を支援する会(090-1239-1410)主催で1991年から、2007年まで、全国900回以上の写真展を開催

その他

●ノンフィクション、写真集、小説、訳書など多数執筆
「核の大地」「戦火の4都市」「龍平の未来」「チェルノブイリと地球」「人間の戦場」「チェルノブイリ消えた458の村」など多数。

●日本テレビ、NHKを中心にチェルノブイリ、中東などの報道番組を多数制作発表  最初の作品は1984年の日本テレビ系「ドキュメント84 母と子の帰れぬ祖国 ―アウシュビッツとパレスチナ難民キャンプ」
 その後中東、核関係を中心に、日本人の源流、ナガの人々、電磁波、ハザール帝国などおよそ60本の番組を制作
最近のディレクター作品でテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号-はばたけ命の翼(チェルノブイリ、村人とコウノトリの物語) 「チェルノブイリ20年目の歌声」NHK

●チェルノブイリ子ども基金顧問(1999年に代表を退く)
●日本写真家協会(JPPS)、日本写真協会(JPS)会員
●日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)会員
●2004年3月新雑誌『DAYS JAPAN』を発刊 同誌、編集長

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